2018年2月アーカイブ

大坂夏の陣 八尾・若江の戦いで、徳川軍の藤堂高虎隊、井伊直孝隊と戦い活躍した武将が木村重成です。

井伊直孝の家臣に討たれた木村重成の首は、家康の元に届けられ首実検が行われます。

そのとき、木村重成の首から伽羅(きゃら)の香りがしたといわれています。

ジンチョウゲ科の植物から採取される香木(こうぼく)を沈香(じんこう)といいます。

沈香は貴重品で価格も高いのですが、さらに沈香の中でも上質のものを伽羅(きゃら)と呼んでいます。

木村重成は出陣の際に伽羅の香をたいて身だしなみを整えたようです。

武士としての嗜み(たしなみ)を忘れていなかった木村重成に対し、家康が感服したいう話しが残っています。

後藤又兵衛の首と墓、又兵衛の生存説

大坂夏の陣 道明寺の戦いで伊達政宗軍の鉄砲隊に銃撃された後藤又兵衛は家臣に命じて首を打たせました。

又兵衛の首は敵に取られないよう家臣が運び泥田の中に埋めたとされています。そのため、又兵衛の首の所在は不明となっています。

又兵衛の家臣吉村武右衛門がのちに掘り出し、又兵衛の親類が住職をつとめる伊予国の長泉寺に葬ったとする伝説が残っています。

■又兵衛の墓
又兵衛の墓は全国に複数存在しています。

・先程紹介した長泉寺には供養塔があります。

・又兵衛の故郷兵庫県加西市の多聞寺には位牌があります。

・鳥取の景福寺には遺髪を埋めた墓と妻子の墓があります。

■又兵衛生存説
・奈良の宇陀には落ち延びた又兵衛が僧侶となったとする伝説があり、「又兵衛桜」と呼ばれる垂れ桜(しだれざくら)が観光スポットになっています。

・大分の中津にも又兵衛が生存していたとする伝説が残っています。中津は黒田家の領地であったことから、又兵衛の妾が住んでいて、落ち延びた又兵衛が住んでいたといわれています。

道明寺の戦いで遅刻した真田信繁

樫井の戦いの敗戦で劣勢となった豊臣方は、大和口に主力部隊を向かわせます。

後藤又兵衛、薄田兼相、明石全登、真田信繁、毛利勝永らの部隊は、決戦前夜平野に集結して別れの盃をかわします。

早朝に道明寺で落ち合い徳川勢を迎え撃つ作戦でした。

先鋒の後藤又兵衛隊が深夜に出発すると、信繁たち後続部隊も順次出発します。

後藤又兵衛隊は早朝に道明寺に到着しますが、後続部隊がなかなか現れません。

そんな状況下で、徳川の先鋒部隊がすでに陣を構えているとの報告が入ります。

後藤又兵衛は信繁たちを待ち切れずに進軍して徳川勢と戦闘(道明寺の戦い)を始めてしまったのです。

信繁たち後続部隊は濃霧のため道に迷い到着が遅れたといわれています。信繁が到着したときにはすでに後藤又兵衛は討死していました。

塙直之(ばんなおゆき)の墓

大坂夏の陣 樫井(かしい)の戦いで塙直之(ばんなおゆき)は討死します。

塙直之は大野治房とともに紀州の浅野長晟(あさのながあきら)を叩くため出陣します。

先鋒隊の塙直之は樫井で浅野軍と遭遇し戦いになりました。

塙直之は同じ先鋒隊の岡部綱紀と手柄を争い、大野治房の軍勢が到着する前に突撃を敢行して討死しました。

塙直之の墓は樫井古戦場跡の碑からほど近い場所にあります。

・塙直之の墓 所在地 〒598-0035  大阪府泉佐野市南中樫井

1595年7月3日秀吉は豊臣秀次に対し詰問の使者を送ります。

使者として派遣された者は石田三成たち奉行衆です。

聚楽第に居た秀次は使者の口上を聞き驚愕します。自分に謀反の疑いがかけられていたからです。

「鹿狩りと称して山中で謀反の算段をしたり、武具の用意をしているとの噂がある。これはどういうことか!」と詰問したのです。

秀次は即座に謀反の意思がないことを伝え誓紙を提出します。

秀次の誓紙を受け取った奉行衆は帰りますが、7月8日になると「すぐに伏見に来るように」との秀吉からの書状が秀次に届きました。

秀次はすぐに伏見に向かいますが秀吉との謁見は許されず、屋敷で待機していたところ高野山行きが命じられたのです。

秀吉に一言も弁解することができなかった秀次はその日のうちに高野山に向け出立しました。

1593年豊臣秀吉と淀君の間に第二子が誕生します。

早世した鶴松の幼名は「棄て子は育つ」という迷信から棄(すて)と名付けられましたが、今度は拾(ひろい)という名に決まります。

実際に一度道に捨てさせ、家臣が拾ったそうです。「今度は丈夫に育って欲しい」という秀吉の思いがそうさせたのでしょう。

拾(のちの秀頼)の誕生により微妙な立場になったのが秀次です。秀吉から関白を譲られていましたが、実子の誕生によりその地位は不安定なものとなります。

拾を溺愛する秀吉の姿を見るにつけ、関白職を奪われるのではないか?という恐怖にさいなまれ精神的に不安定な状態になります。

治療を兼ねて湯治などにも出かけていますが病状は回復しなかったようです。

鶴松の死で関白となった豊臣秀次

1591年1月豊臣秀長が死去。さらに8月には秀吉の実子鶴松もこの世を去ります。

この時点で後継者候補は秀吉の姉ともの三人の息子秀次、秀勝、秀保だけです。

秀保は秀長の養子となり家督を継いでいたため、実質秀次と秀勝の二人となります。

これまでの実績からいっても後継者は秀次しかいない状況です。秀吉は秀次に関白職を譲り自らは太閤となりました。

秀吉は朝鮮出兵に専念するため肥前名護屋城に移り、秀次が聚楽第で政務を執ることになったのです。

豊臣秀次100万石の大大名

小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は家臣に対し論功行賞を行います。

このとき豊臣秀次は尾張と北伊勢のうち五郡を与えられました。

秀次の所領は近江20万石(宿老の所領も合わせて43万石)から尾張、北伊勢五郡に加増されるのですが、このときの所領の石高は100万石あったといわれています。

100万石には旧領の近江も含まれるのか?北伊勢五郡は秀次が統治したのか?秀次の所領だけで100万石か?宿老の所領も含めて100万石なのか?など不明な部分が多々あります。

本当に100万石あったのかは謎ですが、大幅に加増されたことに間違いはなく、秀吉の身内として期待されたことは確かです。

豊臣秀次の所領と宿老

豊臣秀吉は四国の長宗我部元親を服属させた後に論功行賞と配置替えを行います。

このとき豊臣秀次は近江八幡山城主となり20万石を与えられました。

さらに、秀吉の家臣であった中村一氏、梶尾吉晴、山内一豊らが宿老として秀次に付けられました。

宿老の所領が23万石分あり、秀次は近江国のうち43万石を領有したことになります。

豊臣秀次は秀吉の甥で養子になった人物

豊臣秀次は豊臣秀吉の姉ともの長男です。

宮部継潤(みやべけいじゅん)や三好康長(みよしやすなが)の養子となったのちに、子どものいなかった叔父秀吉の養子となります。

秀次には秀勝と秀保という弟が二人います。

秀勝も秀吉の養子になりますが、朝鮮の役で病死。秀保は秀吉の弟の秀長の養子となりますが、秀長の所領を相続して間もなく亡くなります(事故死や病死など諸説あり)

伊達政宗の援軍を期待した北条氏

北条氏は徳川家康以外にも奥州の伊達政宗と同盟を結んでいました。家康が豊臣秀吉に臣従したのちも、北条氏の強硬派が強気でいられた要因のひとつが政宗との同盟だったのです。

北条氏が名胡桃城事件を起こす直前に、伊達と蘆名の間で摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)が行われます。

奥州の統一を掲げた伊達政宗は、会津の名門蘆名氏をこの戦いで破り滅亡に追い込みました。会津を手に入れた政宗は奥州の覇者となります。

名胡桃城事件が北条氏の強硬派によるものだとしたら、この摺上原の戦いの影響は少なからずあったでしょう。どちらも秀吉の出した「関東、奥州惣撫事令」に違反する行為です。

「惣撫事令」を無視した政宗の行動に北条の強硬派が勢いづいたことは十分考えられます。

たとえ豊臣秀吉の大軍が攻めてこようとも、天然の要害である箱根山と、鉄壁の守りを誇る小田原城に伊達の援軍が加われば、勝ち目はあると考えていたのでしょう。

名胡桃城事件をきっかけに小田原北条討伐を決めた豊臣秀吉は、20万ともいわれる大軍で侵攻しました。

早雲から氏直まで5代にわたり、関東地方に君臨する北条氏は、200万石を超える所領を持ち、最大動員兵力は5万ともいわれていました。

国衆との結びつきも強いことから、小田原城を陥落させるには少なくとも1~2年はかかると覚悟していた秀吉は、長束正家に命じ米20万石を用意させたと伝わっています。

開戦当初は兵糧が不足していたため、破格の金額で米を買い取っていた秀吉ですが、準備していた米が到着すると兵粮に余裕がでて戦いを有利に進めました。

北条方では、秀吉軍は寄せ集めの軍勢であり、やがて兵糧不足から内部分裂すると読んでいたのです。しかしその目論見は外れ、各地の城を次々落とされ、小田原城は孤立無援の状態に追い込まれました。

小田原征伐 北国勢の兵力は3万5千

豊臣秀吉は20万を超える大軍で北条氏の領地に侵攻します。

秀吉自らが率いる本軍は東海道から攻め上り、前田利家、上杉景勝率いる北国勢は東山道を進軍し、上野国へ侵攻しました。

真田昌幸、信之、信繁が加わった北国勢の兵力はおよそ3万5千でした。

北国勢の主な武将は、前田利家、上杉景勝、真田昌幸、小笠原貞慶、毛利秀頼、依田康国です。

北条氏政、氏直は豊臣秀吉の軍勢を小田原城で迎え撃つ体制をとります。

小田原城に籠城しながら、関東に配置した自慢の堅城で秀吉軍を叩き、小田原城からの援軍で挟み撃ちにする作戦でした。

そのため、城主の妻子を人質にとり裏切らないようにしていました。小田原城内にはたくさんの人質がいたそうです。

主だった城の城主は小田原j城の守りを固めるため、兵を引き連れて小田原城内に留まっていました。その結果、各城は城主不在となり、城代と家臣だけで守ることになったのです。

北条一門の中で、自分の城で戦ったのは、鉢形城主の北条氏邦だけです。

秀吉軍の攻撃を受けた北条方の城の多くは、たいした抵抗をすることなく次々降伏していきました。

城主不在の城がいかに弱いかを如実に物語っています。

北条討伐 真田昌幸の兵力は3千人

名胡桃城を奪った北条の行為は、「関東奥羽惣撫事令」に反するとして、北条討伐を宣言した豊臣秀吉は、全国の大名に出陣を命じます。

20万を超える大軍が小田原城に向けて進軍を開始しました。

真田昌幸も信幸、信繁とともに3千の兵で上田を発ち、前田利家、上杉景勝の北国勢に加わります。

戦国時代1万石につき250人~300人の軍役が義務付けられていたと考えられています。この場合、戦地から遠い大名は軽減され、逆に近い大名は増員されたようです。

沼田領を失った真田昌幸の石高は7万石前後だといわれているので、軍役は1750~2100人です。戦地から近い真田には増員の命令が出ていたのかもしれません。

3千という兵力は、当時の真田家にとって動員できる最大の数だったのです。

秀吉に認められれば、失った沼田領を取り戻せるという昌幸なりの計算があったのではないでしょうか。

「何としてでも手柄をあげる!」という決意の表れでもあったのです。

真田昌幸の領地は、信濃国の小県、上田領と上野国の沼田領と吾妻領です。

それぞれの領地の石高は史料によってまちまちなのですが、信濃国の領地が4万石、上野国の領地が3万石程度だと推測されます。

豊臣秀吉の沼田領裁定によって、沼田領2万石は北条のものとなっため5万石となります。

もっとも、割譲した2万石に相当する替地を徳川家康が昌幸に与えることになっていたので、実質7万石程度は維持していたようです。

真田の領地 沼田領と吾妻領は何万石

真田と北条が争った上野国の沼田領と吾妻領は何万石あったのでしょうか?

史料や計算方法によって若干の違いはあるのですが、沼田領が2万石、吾妻領が1万石程度だったと推測されます。

小国の領主である真田にとって3万石を失うことは死活問題ですから、必死に守る気持ちはわかります。

しかし、200万石を超える北条には、3万石はそれほど大きなものではありません。結果として3万石にこだわってしまったために、豊臣秀吉を怒らせ討伐理由を与えてしまいました。

黒駒の戦いと徳川、北条の和睦

武田の領地であった、甲斐、信濃、上野をめぐる徳川と北条の争いは、北条が5万ともいわれる大軍を甲斐に派遣し、徳川軍1万と若神子(わかみこ)で対峙します。

数に勝る北条は徳川を囲もうと兵を動かしますが、これを察知した徳川の武将 鳥居元忠が北条氏邦を打ち負かし戦功をあげます。その後、両軍は膠着状態となります。

甲斐の国人衆の多くを味方に引き入れた家康は、信濃にも手を伸ばし、真田昌幸と木曽義昌を寝返らせることに成功します。

大軍を動かし兵粮の心配の出てきた北条と、国衆の調略では有利に展開するも、兵力では圧倒的に不利な徳川は、ここらが潮時だと判断します。

厳しい冬将軍が訪れる前に両者は和睦をしたのです。

その結果、信濃と甲斐は徳川、上野は北条のものとなりました。

徳川家康配下となっていた真田信伊(さなだのぶただ)は、依田信蕃とともに兄の真田昌幸を説得して、家康側につかせました。

真田と木曽が徳川方になったことで、背後をつかれる心配のでてきた北条は、信濃攻略において大きな痛手を受けます。

家康は、真田信伊の働きを褒め、感状と金子五十両を与えるとともに、昌幸の裏切りを知れば北条が攻めてくるので、しっかり守るようにと指示を出しています。

信濃佐久郡の国人 依田信蕃(よだのぶしげ)は、武田家の信濃先方衆です。武田が滅亡した後は、徳川方となります。

本能寺の変直後の信濃では徳川の勢力は小さく、周囲の国人は北条や上杉を頼っていました。徳川に味方をする数少ない国人のひとりであったため、家康は依田信蕃を相当信頼していたようです。

信濃をめぐり北条家と争う家康は、依田信蕃に真田昌幸の調略を命じます。信蕃は昌幸の弟である信伊とともに昌幸を説得して、徳川方に引き込む功績をあげました。

また、信蕃は戦巧者でもあったので、大軍を率いる北条軍に対しゲリラ戦をしかけ打撃を与えています。

これらの活躍により、家康から小諸城の城将に任命されます。しかし、敵対する大井氏を攻めているときに銃弾を受け戦死してしまいます。

信蕃の死を悼んだ家康は、依田家の家督を嫡男 康国に継がせ、松平の姓を与えました。小諸城主となった康国は、徳川配下として数々の戦に参戦します。

豊臣秀吉が小田原の後北条氏を攻めた小田原の陣の最中に、康国は敵に殺害されてしまいます。

家督は弟の康勝が継ぎ、父や兄と同様に徳川配下となりますが、ささいなことから口論となり同僚を殺害し、改易となっています。

その後、康勝は家康の次男である結城秀康に仕えたといわれています。

織田信長横死後、真田昌幸は北条の配下となっていました。

甲斐、信濃をめぐり徳川と北条が争いを展開する中で、昌幸は北条方として徳川と対峙します。

徳川家康は、北条についていた信濃の武将の調略を開始します。

家康は、信濃の有力国人である木曽義昌を味方に引き入れると、真田昌幸の元にも使いを送り北条からの離反をすすめます。

昌幸の調略を担当したのが、徳川配下となっていた昌幸の弟真田信伊(のぶただ)です。信伊は、佐久郡の国人依田信蕃(よだのぶしげ)とともに昌幸の元を訪れ、徳川につくよう説得します。

北条氏を信用していなかった昌幸は、二人の説得を受け入れ徳川につくことを決心しました。

武田家が滅亡したあと、真田昌幸(さなだまさゆき)は、生き残りをかけ主君を次々に変えていきました。

武田→織田→北条→徳川→上杉→豊臣→徳川

武田勝頼が天目山で自刃すると、織田信長に降伏して配下となる。

信長が本能寺の変で横死すると、織田を見限り北条につく。

北条と徳川が争う中、依田信蕃(よだのぶしげ)の調略を受け徳川に寝返る。

北条と徳川が和睦。両家の話し合いで沼田領は北条のものとなる。これに反発した昌幸は上杉を頼り、景勝の元に信繁を人質に出す。

激怒した徳川家康は上田城を攻撃(第一次上田合戦)するも、真田昌幸のゲリラ戦に翻弄され徳川軍の敗北。

上杉を見限り、豊臣秀吉の配下となる。

秀吉と家康が和睦し、家康が秀吉の配下となったことで、昌幸も家康と和解した。

昌幸の嫡男信幸の元に、徳川四天王のひとり本多平八郎忠勝の娘小松姫が嫁ぐ。

真田家の家臣高梨内記の娘きりは、真田信繁の側室となり信繁の次女お市と三女お梅を産んだ女性です。

大河ドラマ真田丸の中ではきりという名前が付けられていますが、実際の名前は不明です。

采女(うねめ)という名前であったとする説もあります。

きりが生んだお市は早世しますが、お梅は伊達家の重臣 片倉重長の継室となりました。

高梨内記(たかなしないき)は、真田氏の家臣。

高梨内記の娘きりは真田信繁の側室となり二人の娘を産んでいます。

高梨内記の出自についてはよくわかっていません。信濃国高井郡を治めていた高梨氏と関係があるのかは不明です。

関ヶ原の戦いで西軍についた昌幸と信繁は九度山に蟄居となりますが、そのとき従った16人のうちの一人です。

昌幸死去後も信繁の元に残り、最後は大坂夏の陣で討死にしました。

信濃小県の国人室賀氏は武田信玄に仕え、武田滅亡後は徳川の配下になったとされています。

真田氏とは不仲であったとされていて、真田昌幸が小県の国衆の盟主的な存在になると、これに不満を持ち独自の行動をとるようになります。

沼田領問題で徳川家と真田家が対立すると、徳川家康は昌幸の暗殺を室賀正武に命じたとされています。

しかし、暗殺計画は昌幸の知るところとなり、上田城に招かれた室賀正武は、昌幸の家臣によって殺害されました。

本当に暗殺計画があったのかはよくわかっていません。小県や佐久の国衆をまとめるために、真田に反感を持っている室賀を誅殺しただけかもしれません。

真田信伊(さなだのぶただ)

真田信伊(さなだのぶただ)は、真田幸隆ととり(恭雲院喜山理慶大姉)の四男です。

武田信玄の家臣となり甲斐の名門加津野家を継いだため加津野昌春(かずのまさはる)を名乗っていました。

武田が滅亡した後は徳川家に仕え、旗本として4000石の知行を与えられ、家は幕末まで存続しました。

とりは、真田幸隆の妻、昌幸の母、信幸と信繁の祖母。

真田家の家臣河原隆正(かわらたかまさ)の妹だとされています。

とりに関しては史料がほとんど残されていないので、どんな人物であったのかは不明です。

大河ドラマ真田丸の中では、とりという名前で呼ばれていますが、実際の名前はわかっていません。

1536年に幸隆と結婚して信綱、昌輝、昌幸、信尹と娘二人を産みました。

1593年頃に亡くなったようです。戒名は恭雲院喜山理慶大姉(きょううんいんきざんりけいだいし)

出浦守清(いでうらもりきよ)

出浦守清(いでうらもりきよ)は、村上氏の一族で信濃国更科郡の地に出浦城(いでうら)を構えていた国人です。

武田信玄の元で諜報活動などを行っていたことから、忍びの者(すっぱ)であったといわれています。

本能寺の変以降に真田昌幸の配下となりました。

武田勝頼が新府城を捨て退却するときに、真田昌幸は自分が城代をつとめる岩櫃城(いわびつじょう)へ向かうことをすすめたことはよく知られています。

「岩櫃城は守りが堅く数年分の兵粮が蓄えてある」と説いたとされています。

側近が反対したことで、勝頼は小山田信茂の居城岩殿城へ向かうことを決断します。

しかし、これより以前に昌幸は北条氏邦に二度手紙を送り服属したい旨を伝えています。さらに織田信長にも手紙を送っていたようです。

小山田八左衛門(おやまだはちざえもん)は、武田家の重臣小山田信茂の家臣です。

小山田信茂が裏切りを決めたとき、母が人質となっていました。

武田勝頼一行が信茂の居城岩殿城を目指し落ち延びる途中に、小山田八左衛門らが人質を救出して姿をくらまします。

信茂の裏切りを知った勝頼は天目山で自刃して果てます。

その後、小山田八左衛門は信茂と一緒に善光寺で処刑された、もしくは残党狩りで討取られたとされています。

織田・徳川連合軍が甲斐に侵攻する中、武田勝頼は新築(未完成)の新府城を捨て小山田信茂の居城岩殿城を目指し落ち延びていきます。

「信長公記」によると、勝頼は退去する際に新府城に火をかけ、人質を焼き殺したそうです。

人質たちの泣き叫ぶ声があたりに響いたとされています。

裏切った場合、人質は処刑されるのが戦国の決まりですが、あまりの凄惨さに声もでなかったと記されています。

1575年長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れた武田勝頼は多くの重臣を失います。武田の凋落を見た木曽義昌は1582年に織田信長に寝返り武田から離反します。

それまで武田方であった信濃の諸将も次々寝返り武田は窮地に追い込まれます。

さらに、一族の穴山梅雪(あなやまばいせつ)までもが裏切り徳川に取り込まれてしまったのです。

織田・徳川軍が甲斐に侵攻する中、勝頼は新築したばかりの新府城(しんぷじょう)では守りきれないと判断します。

真田昌幸(さなだまさゆき)は、岩櫃城(いわびつじょう)まで退くことを提案しますが、勝頼は重臣の小山田信茂(おやまだのぶしげ)の居城 岩殿城を選択しました。

しかし、小山田信茂は勝頼を裏切り信長に寝返ったため、進退窮まった勝頼は天目山で一族とともに自害して果てました。

勝頼を土壇場で裏切った小山田信茂は、信長に服従するため妻子を人質として差し出しますが、織田信忠から主君を裏切った不忠者と罵られ、善光寺で妻子ともども処刑されたと伝わっています。

真田昌輝(さなだまさてる)は、真田幸隆の次男です。兄の信綱(のぶつな)と同じく長篠の戦いで討死しました。

次男であったことと、長篠の戦いで討死してしまったため史料にも名前が登場しません。生まれた年も不明です。

武田信玄側近の百足衆(むかでしゅう)のひとりに数えられているので、剛の者だったと推測できます。

真田信綱(さなだのぶつな)は、真田幸隆(さなだゆきたか)の嫡男で1537年生まれとされています。

幸隆の晩年に家督を継承して真田家の当主となりますが、長篠の戦いで討死してしまったため、信綱に関する史料は少なく、どのような人物であったのかは不明です。

真田家の家紋といえば六文銭(ろくもんせん)ですね。六文銭は三途の川の渡し賃といわれていますから、命がけで戦うという意思が込められています。

真田家のオリジナルと思われている六文銭ですが、実際は滋野一族の紋であったようです。滋野一族の三家(海野氏、禰津氏、望月氏)の中には、六文銭を家紋や旗指物として使用していた家がいくつかあるそうです。

真田も海野氏の流れをくむ一族なので六文銭を使用していたのでしょう。最終的に真田氏が生き残ったため真田家のオリジナルだと認識されています。

晩年の真田信繁(幸村)の活躍もあり、命を懸けて戦った真田と六文銭がマッチして、真田家=六文銭というイメージが定着しました。

真田氏は海野氏の支流

真田氏は海野氏の直系ではなく、海野氏の一族(支流)であるとする説が今のところ有力となっています。

海野氏の当主 海野棟綱(うんのむねつな)の娘が、土着の豪族であった真田頼昌(さなだよりまさ)と結婚して二人の間にできた子が真田幸隆(さなだゆきたか)だとされています。

ちなみに幸隆は次男であったようです。頼昌には幸隆以外にも数人の男子が誕生していて、矢沢氏など他家の養子となりました。

真田氏の系譜と海野氏(うんのし)

真田氏は江戸時代信濃国松代藩(まつしろはん)13万石(のちに10万石)を領有し、明治まで存続しました。真田氏が幕府に提出した系譜によると、名門である海野(うんの)氏の嫡流だと称しています。

海野氏は信濃国小県(ちいさがた)に勢力を持っていた豪族で、清和天皇の流れをくむ滋野(しげの)氏の一族です。

滋野氏が三家(海野、禰津、望月)に分かれ、その中で海野氏が嫡流とされてきました。真田氏の先祖は海野氏の直系であり名門であると主張したのです。

このように、自分の先祖が名門であるという主張は、真田家に限ったことではありません。戦国時代に家を興した武将たちの多くが出自のはっきりしない人たちです。

よほどの名族でない限り系図など持っていません。そのため苦労しながら系図を創作したり、書き換えたりして、自分の家の歴史を作り上げたのです。

信繁の祖父真田幸隆(さなだゆきたか)は謎の多い人物です。いつ頃生まれどんな生活を送っていたのか史料が存在しないのす。

最初は幸綱(ゆきつな)を名乗っていましたが、途中で幸隆に改名したようです。

もっとも戦国時代に名を上げた武将の多くが出自不明であり、幸隆だけが特別ではありません。

信濃国の小豪族であった幸隆に関する史料が残っていないのは当然といえば当然なのです。

「甲陽軍艦」には、幸隆が北信濃で勢力を持っていた村上義清と敵対していたことが記されています。

幸隆の名が知られるようになったのは、武田信玄の配下となり戸石城(砥石城)を調略したころからです。

2016年の大河ドラマ「真田丸」の主人公は真田信繁(さなだのぶしげ)ですが、真田信繁という名前を聞いてもピンと来ない人もいるでしょう。

世間一般には真田幸村(さなだゆきむら)という名前のほうが浸透しています。もちろん信繁と幸村は同一人物です。ではどちらが本当の名前なのでしょうか?

それは「信繁」です。現存している真田幸村自筆の書状には「真田信繁」という名が記されています。信繁自身「幸村」と名乗ったことはないようです。

では、なぜ「信繁」が「幸村」になったのでしょうか?

江戸時代に作られた軍記物が「幸村」という名前を使ったため、それが一般に広まってしまったのだといわれています。

作者がなぜ「幸村」という名前を使用したのかはよくわかっていません。徳川家の天敵である真田信繁の活躍を描いた物語を出版するわけですから、徳川家に遠慮したのかもしれません。

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