真田丸

武田勝頼を裏切った小山田信茂(おやまだのぶしげ)のその後

1575年長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れた武田勝頼は多くの重臣を失います。武田の凋落を見た木曽義昌は1582年に織田信長に寝返り武田から離反します。

それまで武田方であった信濃の諸将も次々寝返り武田は窮地に追い込まれます。

さらに、一族の穴山梅雪(あなやまばいせつ)までもが裏切り徳川に取り込まれてしまったのです。

織田・徳川軍が甲斐に侵攻する中、勝頼は新築したばかりの新府城(しんぷじょう)では守りきれないと判断します。

真田昌幸(さなだまさゆき)は、岩櫃城(いわびつじょう)まで退くことを提案しますが、勝頼は重臣の小山田信茂(おやまだのぶしげ)の居城 岩殿城を選択しました。

しかし、小山田信茂は勝頼を裏切り信長に寝返ったため、進退窮まった勝頼は天目山で一族とともに自害して果てました。

勝頼を土壇場で裏切った小山田信茂は、信長に服従するため妻子を人質として差し出しますが、織田信忠から主君を裏切った不忠者と罵られ、善光寺で妻子ともども処刑されたと伝わっています。