真田丸

拾(ひろい)の誕生でノイローゼになった豊臣秀次

1593年豊臣秀吉と淀君の間に第二子が誕生します。

早世した鶴松の幼名は「棄て子は育つ」という迷信から棄(すて)と名付けられましたが、今度は拾(ひろい)という名に決まります。

実際に一度道に捨てさせ、家臣が拾ったそうです。「今度は丈夫に育って欲しい」という秀吉の思いがそうさせたのでしょう。

拾(のちの秀頼)の誕生により微妙な立場になったのが秀次です。秀吉から関白を譲られていましたが、実子の誕生によりその地位は不安定なものとなります。

拾を溺愛する秀吉の姿を見るにつけ、関白職を奪われるのではないか?という恐怖にさいなまれ精神的に不安定な状態になります。

治療を兼ねて湯治などにも出かけていますが病状は回復しなかったようです。